保育園児について
子どもってなあに?
保育士って何だろうと考えていたときに、そもそも、子どもって何だろうと気になり始めました。そしたら、あることに気付いたのです。私は「子供の頃は…」と言う言葉を今まで使ったことがなかったんです。あっ!自分には大人という意識がない。自覚がない。自信もない。「小さい頃は」とか、「○○のころには」という気持ちでは話してたけれど、こどもと自分の間にはここからという一線がなかったことに気がついたのです。 ハッとしました。
皆さんはいかがですか?いつから、自分の大人を感じられましたか?私は、大人になったという自覚はずっとなかったように思います。成人式の時も「大人になった」という感動もなく、「選挙」のはがきが来た時もそうでした。
こどもの延長としての時間が過ぎて、社会人になってはみたものの、それでも大人になったという自覚は生まれてきませんでした。でも、周りから、「いいかげん大人になりなさい」とか、「こどもみたいなことをいうな」とか言われました。
こどもって小さい「全部小さい」身長も手足も全て小さい。そして、こどもの「目」って、自分が見たいものしか捉えない。見えてないのか、見ようとしないのか、興味をもったものだけがこころに映り、ほかのものは捕らえていない。
こんなことを良く耳にします。道路の向こう側にお母さんの姿が見えたり、ボールが転がっていったりしたとき、こどもはまっすぐその道路を横切ろうとします。そこに自動車が走ってきていることにも気付かずに思わぬ事故になるということがありますね。これがこどもの見えてる目なんですよね。親の指導が悪いとかで起こることではないのです。
道路をよく見て渡るということが幼いときでも訓練によって出来るようにはなると思います。只そういうことが果たして本当にすぐれているということとは違う気がします。
ここに10人のこともが立っているとしましょう。同じように向こうを見て立っています。それぞれのこども達のこころに映っているもの、こころに語りかけてくるものを、そっと覗いてみることが出来たなら、一人一人みんな異なったものを捕らえているでしょう。遠い空を見ていても、色だったり、雲の形だったり、過去の思い出だったり、みんな違う。
一人は足元の影を見ていたり、もうひとりは少し向こうの車を見ていたり、となりの子は目の前を通り過ぎる生き物を見ていたり、そして、ものを全然見てないように見えても何かを思い浮かべていたり、そんなにも、みんなみんな感じることが違い、思いが違ってるんですよね。そう、こどもってみんな違うのですよね。
なのに、揃えようとするのが大人達。似たものを集めたがり、一緒にしたがる。そういう、大人っていうのは、いつから?どこからが大人?どうしてそんな風に、みんなを揃えようとするようになるんだろう…
こどもの時はみんな違うのに、こども達はみんな違うのに、大人になると揃えようとしたがるから、はみ出したりするのが気になってしまう。本当は全部違うのだから、はみ出しなんてものはないはずなのに。
こども達は自分からそう望んでいるのではないけれど、自分の見えるもの、したいことだけが心に映っているので、ストレートに行動に出てしまう。そして、こころが健康であれば自分の興味の素となるものを目指してどんどん進んで行こうとする。そこへ行くまでにはいろんな通せんぼがあり、いろんな垣根が有り、いろんなお手伝いがあり、そういうマイナスにもプラスにもたくさんの出会いが有る。そのふれあいを通して経験の中で少しずつ大きくなっていくのですね。
こども達の「目」は、対象全てを「生き物」と感じ、「さん」をつけて呼ぶのが相応しいかのように、働き掛けていき、人も物も同じように感じてとっていきます。
でも、その生き物という意識の中にはまだ「命」と言う存在はありません。そしてその対象が次第に身近に感じられてきて、そこにいのちというものを感じ始めたり、無生物に対しては、一方的に自分から動きを起こすだけで、相手からは自分への反応してこないものだと気付いたりして、いのちの形を感じ始めるのだと思います。目で見るという力なのです。次にこころと身体で「観る」という学びが始まります。そこでいのちというものが自分に与える影響力を知っていくことになっていきます。
虫に遭遇し、興味・驚き・恐怖というこころの動きを味わい、小動物に触れて、温もりを感じて、思い通りになってくれないもの、攻撃してくるものなどのこころの葛藤を味わいます。
そしてその次に、とても大切なこころの経験、かけがいのないものという「いのち」の存在を感じ取っていくのですね。そこには、映像としてみる目だけではない「心の目」が開きます。身体全体で感じる眼が育っていき、友達への関心も広がっていきます。
小動物とは違って自分と同じことができ、自分と同じ気持ちになり、笑う。そして、自分の思い通りにならない、ぶつかるものだということを知らされます。目、眼、心の目、身体の眼が開いて、次に「脳の目」が育ってきます。考えることが巧みになっていくのです。
いろいろな人、もの、機会との触れ合いを通して、縦横に発達していきます。ここからは目の育ちだけでは獲得できないことがたくさんです。耳が育ち、五感が育ち、手足が育ち、バランス感覚が育ち、そして精神が育っていきます。どこまで育ったら、大人かと言うことは、これから調べていきたいと思います。
いのちを感じることの出来る目でも見えないもの―――それは「たましい」です。その存在に触れることのできたこども達はいのちの尊さも、はかなさも、この生きる世界をつかさどる何かの存在すらも感じ取ることが出来、まっすぐに生きていこうとする力が備わっていくのです。では、どこからが大人かということに目を向けてみましょう。身体的なことだけなら、成長が止まった時。社会的にならば飲酒、喫煙の許される20歳になったとき。
道路交通法で言うなら自動車の運転免許では18歳になったときでしょうか。身体ではもうひとつ、性に目覚めた時も大人なのかもしれません。身体的には、親となり、子を授かる資格をもったということですから。
こうして、「こどもの目」に関心を持ってみてみると少し前を歩いている、少しだけ先に生きている人間つまり私達が後から生まれてくる、または生まれてきた後輩つまりこども達に、何をしてあげたらいいのか、何をしてはいけないのかが判っていきますね。
保育士の役目はこういう事をしっかり整理していく事で、今、新しくお母さんお父さんという免許をもらった人たちの為の水先案内人になっていくことも、大きな仕事ではないでしょうか・・・・
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